生きている父の足がなぜか消えている

 エピソード1 本日のゲストに招かれたのは学校教師の山田光一(仮名)さんです。

1966年1月、東京都で出生。都内の高校を卒業後、豊島区の大学へ。卒業後は都内の某高校の教壇に立っている。

序章

 「父は超が付くほどの人気俳優でしたので、逢いたくてもまったく逢うことができないほど多忙な毎日を過ごしていました。大学に進級したころでした。母からの連絡をもらい実家に行くことに。そこに居たのは、いつもとまったく違う父がいたのです。

そして予想もしていなかった大事件が起きてしまいます。

異変

「新年を迎えた2日のことです。母から連絡をもらったのは朝の9時頃でした。父がいつもと違うということでしたので実家を訪ねてみると。そこに居たのは中身が抜けてしまった父でした。この状態のまま病院へ連れていくと、うつ病と診断されます。」

 「この日から家族の生活環境は一変します。いつ何時どのような行動をしだすのか分かりませんので家中の窓にはしっかりと2重ロックを掛け外に出られないようにしました。」

「外に出るのは月に一度の病院の診察の日だけです。院内の中庭とその周辺を散歩するのが父の楽しみのひとつになっていました。このような生活環境の中で1年ほどが経過します。以前と比べると歩く足取りも回復し精神的にも落ち着きがあるうえ、話す内容も昔の父のようです」

提案

父の状態が安定傾向にありましたので私は勉学に励むため父の介助を離れておりました。そして久しぶりに母からこのような連絡が入ります。

「ここのところ、だいぶ精神的にも落ち着いてきていて話の内容も大分しっかりして理解力もあります。さっき中庭を一緒に散歩して来たところよ。この様子だったら回復が早いかもしれません。今日でもいらしてみたら」

大学の帰りに立ち寄ってみると。これほど変わるのか。というくらいの父がそこにいました。これだったら数か月もすれば元の父に戻れると確信めいたものを感じるほどでした。

ここで母にこのような提案をしてみたのです。

「今度、お父さんが大好きだった神奈川の広沢寺温泉にいってみない」

これには母も賛成してくれました。側で聞いていた父も大賛成です。そして1か月後、家族4人は温泉地に向け出発します。両親を乗せた車は弟が運転し、私は夕方に所用がありましたので同乗せずに別の車でいくことになりました。

失言

温泉宿に到着するやいなや父が私たちを置いて小走りで浴室へと向かったのです。母はこの父を見ながらくすくすと笑いながらこう言うのです。

「ここに来るといつもこうなの。私はいつもここに置いてきぼり」

私が浴室に行くと、湯に浸かりながら鼻歌を歌うほどとってもリラックスしている父はどこから見ても病人とは思えません。ここから数か月もすると病気からは回復するだろうと思えるほどでした。

食事もすみ、私は先に帰る時刻が近づいてきていましたので、父に向かいこう言います。

「お父さん。もう少し頑張って早く治そう。さようなら」

この瞬間です。ついつい気のゆるみから禁句の言葉を使ってしまいました。もう、全身は鳥肌状態です。

申し訳ない思いから頭を下げると。なんと父の両足が消えているのです。え!と思いながらもう一度確認しましたが、やはりありませんでした。

すかさず母の側に近寄り小声で今の失態と足の件を伝えたところ、母もこの事は分かっていました。でも、もうどうしようもありません。

すると、ここで母がこう言ってきたのです。

「今日は本当にありがとう。お父さんも喜んでいますよ。先ほどの足は、ほら、もうありますよ」

確かに今はあります。でも先ほどは消えていました。この事は母も知っています。そして父の顔をもう一度見てみると元気そうに微笑んでいました。きっと許してくれているにちがいない。私なりにこう解釈しながら帰路につきました。

最期

12月8日、いつもと変わらぬ朝のひと時をマンションの部屋で一人過ごしていました。そして8時ごろです。ドアベルが鳴りましたので玄関の扉を開けてみると、そこには誰もいません。再度リビングに戻るとまた鳴りました。また扉を開けると、そこには誰もいません。

変だなぁ〜と思ったときです。

今度は電話が鳴り響きます。

取ると実家の家政婦さんの声が震えながらこう言います。

「幸一さん!早くきてください!急いでください!」

大変なことが起っているのが分かりました。

実家に到着すると玄関前は人だかりでパトカーも数台確認しました。門には立入禁止の黄色いテープが張られ、ここから家の中へと入っていくとリビングの扉の横にへたれ込んでいる母親の姿をみつけます。

そしておおよその事を想像しながらリビングへ入っていくと、そこには父の姿はもう無く、辺り一面が真っ赤に染まり、壁には肉片らしきものが所々に飛び散っていました。あまりにもむごすぎる最期です。

母の側にいき抱きかかえようとすると体の震えが伝わってきます。父のあの姿が脳裏から離れられないのでしょう。無理もありません。自らの顔を猟銃で撃ちぬいたのですから。

ここから10日間ほど母はこのショックから抜け出すことができませんでした。そして父が、なぜこのような行為にはしったのか。霊的なカウンセリングすることにしました。

最後の日

 「(カウンセラー)家族で気晴らしに温泉に行って楽しんでこよう。と、みんなで計画をたてました。このとき、お父さんはここの温泉で楽しむことを我が人生の最後の思い出の場にしようとしていたのです。」

「子供のようにはしゃいでいたのも、この理由からきています。みんなが楽しんでいる顔を見ながら嬉しさをかみしめていました。これで思い残すことがありませんでした」

「幸一さんが別れの際に失言をしたと反省をしておりましたが、お父さんは今日の楽しい出来事のことに満足しきっていましたので、この事は耳に届いていませんでした。」

「この後の消えている両足のことになりますが、これは死を覚悟した思いがこのような形で現れたのです。」

「それと、お父さんが猟銃の引き金を引いた瞬間。魂はあなたの元へ移動しドアベルで旅立ったことを教えてくれたのです。そこには、今日までの感謝の思いがありました。」

息子へ

「今、あなたの右側にお父さんが現れました。なぜここに来たのか。それはあなた方息子にたいしての謝罪があるからです」

”(亡父親)君たちが子供のころ、テレビに出演しているお父さんを見て、はしゃいでいるのをお母さんから聞いて知っていたよ。帰るのは、いつも夜中で満足に遊んであげることもできなかった。遊園地や動物園に行きたいのも知っていたよ。知っていながら、すべて仕事優先で時がすぎてしまい。気が付けば、もう中学三年生までなっていた”

”あの時期に一緒に遊んでやれなくてごめんね。お母さんにばかり負担をかけてしまいお父さんとしては失格だね。こんなに素直で立派に育ってくれて本当にうれしいよ。ありがとう。そして、本当に申し訳なかった。許してください”

「(カウンセラー)お父さんは仕事にたいする情熱は人並み以上に優れていました。責任感もそうです。でも子育てに関することは素人以下と言ってもいいでしょう。」

「子供を育てるのは初めてのことです。何をどうしたらいいのか。悩むこともしばしばありました。このとき仕事をすることによって一時的に忘れることができたのです。

簡単にいうと仕事に逃げていたのです。お父さんも一人の人間です。幾つかの過ちがあります。完璧な人間はどこにもおりません。許してあげてください」

別れ

帰宅後、幸一は弟と仏壇の前で嗚咽をもらしながらお父さんを許してあげていたそうです。きっとこれで、亡き父も思い残すことなく天にお帰りになったことでしょう。

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